仕事の必要性から、アレルギーすらあった英語習得を試みたわけですが、苦労はありつつも、英語で仕事ができるようになった今、思うことは、英語習得に頭の良し悪しはあまり関係ない、ということです。結局、英語なんてただの言葉なので、ルールを学んで、表現のレパートリーを広げる作業を継続できれば、遅かれ早かれ誰だって英語を使えるようになると思います。
この意味で、英語というのは、いわゆる難関資格のような深い思考力が必要になることは基本的に無いと言えそうです。いうなれば、英語は「やるかやらないか」だけの問題ということです。もちろん、暗記が得意な人もいれば苦手な人もいる、初めから発音が奇麗な人もいれば下手な人もいます。それでも、やることをやりきれば、英語は誰でもできるようになると思います。
やれば誰でも出来るようになるのに、意外と英語学習に尻込みする人が多い気がします。TOEICの勉強という意味においては多くの学生・社会人が取り組んでいますが、実践的な英語運用能力の改善という意味においては、多くの大人が尻込みします。
僕の観測範囲の話なので一般化はできませんが、高学歴の人ほど英語力の改善を疎かにしているように感じます。想像の域をでませんが、彼らはいわゆる受験エリートなので、人前で下手な英語を喋ることに、猛烈な抵抗があるのだと思います。ペーパーテストでは当然のようにハイスコアが取れるのに、いざ喋るとなると、口を噤んでしまうのです。
おそらく、その心理的背景には「間違い=かっこ悪い」という思いがあるような気がします。ペーパーテストでは、じっくり確実に「答え」を出せる人でも、英語の現場でサバイブするとなると一気にハードルが上がるのでしょう。言うまでもなく、現場では会話の流れを受けて、瞬間的に英語を喋ることになるため、潜在的に「間違い=かっこ悪い」と考える受験エリートにとっては猛烈にリスクなわけです。
・三単現の「s」が抜けてしまった。
・時制の一致に失敗した。
・前置詞がおかしかった。
実地で英語を使っていない人は、ペーパーテストは優良であっても、現場でこのような表現の小さなミスを散発します。「間違えたくない人」にとっては、こうした一つ一つの英語表現のミスが「頭の悪さ」を露呈しているような気になるのかもしれません。
しかしながら、実地の英語力を身につける上では、こうしたミスは避けて通れない過程であり、むしろ、こうしたミスをおかしながらも場数を踏みまくることで、少しずつ改善させていく姿勢こそが大事になってきます。これは、「間違い=かっこ悪い(頭が悪い)」という感性で生きている、プライド高きエリートにとっては、不都合な真実なのかもしれません。
この状況は、余計なプライドがない凡人にとってはかなり有利です。思考力に長けているドメスティックエリートは、ある種のプライドが邪魔して、英語という社会的ニーズの高いスキル取得に参入してこないわけですからね。下手な英語を喋っても、失うものがない我々凡人の方が、英語習得には向いているわけです。
繰り返しになりますが、英語習得に深い思考力はいりません。必要な資質があるとすれば「継続する力」でしょう。来る日も来る日もトレーニングを続けることさえ出来れば、個人差はあってもいずれは誰もが英語を使えるようになります。こうやって言うと、「やる気・根性」のような精神論に近いものを感じますが、実際のところ、英語習得において「根性」は必要だと思います。
「根性論かよ」と思った凡人さん、根性でどうにか出来るのだから有り難いと思ってはいかがでしょうか。思考力で劣る我々凡人にとって、やる気と根性で勝負できる分野は願ってもないチャンスと言えるでしょう。英語なんてやれば誰でも出来るようになるのです。
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