MENU

プロフィール

これまでの経歴を紹介します。

職務経歴

・高校を卒業後上京

 

・某ラーメン店(年収200万)

 

・某中古カメラ屋(年収280万)

 

・某ソフトウェア会社(年収400万)

 

・某SES企業(年収320万)

 

・個人事業主として開業(年収660万)

 

【現職】

・某大手SES企業(年収600万)

初めまして、保井佑太です。

私は現在、某大手SES企業でインフラエンジニアとして勤務してます。現職では大手SES企業の社内で請負い業務としてAWSのインフラ構築を担当してます。
転職は5回、個人事業主として1度開業してます。
年収は

この経歴を見ていただけると順調に年収を伸ばしているように見えるかもしれませんが、30代になるまでは人生の終わりのような状態でした。

元々私は料理が好きで、将来自分のお店を出したいと考えてました。
地元は新潟県の片田舎でしたのでなんとなく都会に憧れ、高校を卒業後に東京の中華料理店に就職しました。

私の職業に対する考え方は具体的ではなくフワッとしていました。高校生だったので仕方ないのですが、、、
この時の甘い考えが後に自分の首を絞めることとなります。(具体的には後ほど記載します。)

中華料理店での仕事はとても大変なものでした。勤務時間は約11時間(仕込みのため朝7時に出社→夜7時に夜番と交代するため退社)
今でこそこのような働き方はブラックと呼ばれるのでしょうが、当時の飲食業では当たり前の働き方でした。

仕事の経験は高校生の時に田舎のジャスコ(当時のイオングループのスーパーの名前)のアルバイトで惣菜の店出ししかやった事がなく、
不慣れで責任のある仕事に当時は悪戦苦闘してました。中々仕事が覚えられず、毎日のように先輩に怒られてました。
仕事は夜勤もあったりするなど不規則な生活とストレスで体調を崩してしまいました。
(中華料理店での驚きの収入や経験についてはこちらの記事で紹介してます。)

元々自分のお店を出したいといった夢があったので、学校に入って学び仕事を辞めて転職するという考えは当時は全く考えておらず、
当時高卒だった事もあって学校に入って学び直したいという気持ちが強くなり、ビジネス系の専門学校へ入学しました。

専門学校では主に会計の為の簿記や販売士の資格取得を目指して勉強してしました。
学生生活も就活の時期になり、ちょうど2010年頃でしたのでリーマンショックによる就職氷河期にぶち当りました。
企業の採用枠も絞られていたため就活では書類選考に中々通らず苦戦しておりました。

卒業まであと数ヶ月というところで専門学校の紹介で目黒区にある老舗の中古カメラ店を紹介してもらいました。
学校の卒業生が就職しているお得意先という事もありすぐに面接を組んでいただき無事採用となりました。

ここで社会人として大きな壁にぶち当たる事になります。

カメラ屋に入社してからは先輩についてもらいながら接客を学びました。
ただ、カメラの販売という専門知識が必要な仕事に私は当初ついていけませんでした。

元々カメラに興味があった訳ではないので、教えて頂いた知識が中々定着しませんでした。
また、接客という仕事の意味を履き違えていて、お客様が求めてないものを過剰に勧めたりなどして煙たがれました。
今思うと、私は本当に接客に向いてなかったと思います。
(この時の接客に向いてなかった私が技術を身につけて顧客がつくようになるまでを具体的にこちらの記事で紹介してます)

もしかしたら同業者でご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、小売業は給料が低かったです。
大手企業や大手チェーン店は例外かと思いますが、私が働いていた会社は老舗とはいえ規模が小さく当時の初任給は手取りで15万ほどでした。

前述した通り、仕事の覚えが悪かったので上司や先輩たちからは見放され、職場では嫌味を言われる日々。
給料が低いため生活するのに精一杯だったので、プライベートでストレスを発散できず精神的に追い詰められていきました。

そんな中、それでも仕事を続けていた時に一人の常連のお客様が私の顧客になってくれました。
この小さな成功体験をきっかけに私は接客のコツをつかみました。
顧客を増やしていったことで失っていた周りからの信頼も取り戻しました。
(この時どのようにして)

その後、人とのコミュニケーションに強く興味を持ち、また、カメラ屋には外国人もよく来店するためその方たちを接客する中で、
異文化にも触れてみたいという思いが強くなっていきました。

海外で暮らすことで、異文化や英語、コミュニケーションの取り方について全て学ぶ事ができるという考えに至り、ワーキングホリデーで1年間カナダに留学しました。

資金の兼ね合いもあり英語は学校に通うことはせずに現地で働いて学びました。やはり初めは聞き取る事ができず、
相手が何を言っているのか理解できなくて、コミュニケーションに苦労しました。
それでもある方法を取り入れて1〜2カ月程で耳が慣れていき日常会話に不安なく過ごせるようになりました。

カナダでの仕事はホテルのハウスキーパーや、スキー場の和食レストレランで調理を担当してました。
特にスキー場では、リフトのシーズンパスが福利厚生としてもらえるなど、充実してました。

海外に住んでみて学んだことは英語はしっかり勉強しなければ海外で暮らすこともできないと思ってましたが、
そうではなく、環境に入ってしまえば自ずと身に付くものだという事を体感しました。
この、環境に入ってからこそ学ぶ事ができるという考えは後にエンジニアとして働く際に役にたちました。

ワーキングホリデービザの期限が迫ってきたため、帰国することになり最後に隣国のアメリカを旅行しました。

元々スティーブ・ジョブズが好きだったこともあり、サンフランシスコのシリコンバレーの有名企業を周るツアーに参加し、GoogleやApple、
Meta社(旧Facebook)を見学しました。

この時、アメリカではGoogle傘下のwaymoが自動運転の試運転をしていたのを目の当たりにして、情報産業の発展に驚きました。
一つの産業が世界を変えていくような感覚があり強烈に私の印象に残りました。

ワーキングホリデー後の進路が決まってなかったのですが、就職して働き出してから低い年収に悩まされていたため、
そこを変えていきたいと思ってました。(20代の頃の年収で苦労した話はこちら)

アメリカでの体験から情報産業はなんか凄い!そんなイメージを持ち、YouTubeなどでも堀江貴文さんや、他のYoutuberの方たちもIT業界は稼げる!
といったことを配信しているの見て、IT業界に挑戦する事を決意しました。

就活は実家ではなく、東京の新宿で格安のシェアハウスに住み込み単発のアルバイトをしながら就活を始めました。
理由は実家の方が確かに環境は良かったのですが、環境に甘んじてしまい就活が長引いてしまうのを恐れたためです。
また、東京には情報や会社が沢山集まっていると考えていたので、その点もメリットに感じてました。

就活をしている中で転職エージェントに初めて登録しました。
当時は年齢が30歳だった事もあり、「30代未経験でエンジニアになるのはかなり難しいです」
エージェントから掛けられた一言でした。

今でこそ、プログラミングスクールなどスキルを学んで就職支援を行なっているところが沢山ありますが、
当時はそういったサービス自体少なかったとので、就職してから学んでいく考えしかありませんでした。
(当時未経験30歳からエンジニアになれた経験をこちらの記事で紹介してます)

就職活動が悪戦苦闘する中、エンジニアの派遣の営業をしている友人に頼って情報を得ることにしました。
ここで、自分の人生を変えるAWSに出会います。
(この友人には、20代の頃に朝活が流行っていた頃知り合いました。 会社外の活動も充実させる方法はこちら)

友人と会話した中で自分には、今からプログラムを勉強してプログラマーになるよりはインフラエンジニアを目指して就活をすると良い。
また、AWSというAmazonのクラウドサービスの需要が増えつつあり、エンジニアが不足しているとので重宝されるかもと教えてもらいました。

この会話から、私の就活は方向を変えました。まず、エンジニアの仕事に色々な種類がある事を知りました。
ざっくり分けるとシステムのフロント部分を担当するエンジニアと、サーバー側のプログラミング開発を担当するエンジニア、サーバーの土台やネットワークを構築するエンジニアに分かれているとのこと。
その中でサーバーやネットワークを構築するエンジニアはインフラエンジニアと呼ばれ、アプリ担当や時には顧客と会話しながらシステムを構築するため、コミュニケーションスキルも必要になるようで、私が経験してきた接客の経験が活かせるかもしれないとのことでした。

インフラエンジニアの求人に絞ったところ書類が通る確率も上がりました。最終的にAWSと大手企業の運用保守をメインの仕事とした会社に就職することができました。

入社してから2カ月間は教育を受けました。私がIT業界未経験だったこともありかなり手厚く教えていただきました。
ただ、おそらくIT未経験の方は経験したことがあるかもしれませんが、